遠回しに表現される駿の想い




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“日に日に戦争の足音が近付いていた1920年代の日本。軍は戦闘機の開発に躍起になっていた。
そんな中で、美しい飛行機を作ることを夢見る堀越二郎は、飛行機設計士となり、日夜飛行機作りに励んでいた。
そしてある日、かつて助けた女性と運命的な再会を果たす。”

零戦の設計者として知られる堀越二郎の半生をベースに堀辰雄の恋愛小説を混ぜ込んだ映画。こんなごちゃ混ぜにする意味が分からないが、要するに駿の描きたかったことを詰め込んだのだろう。実際、ドラマ的な恋愛パートのおかげで見所は増えている。今までの駿映画はストーリーを犠牲にしてでも自分の少女に対する拘りを押し通していた節があったが、今作に限ってはバランス良くまとまっているなという感じ。ヒューマンドラマにしたのはこの点から見ても正解かも知れない。
映像は流石のジブリクオリティ。特に戦闘機の作画は凄まじく、駿の戦闘機フェチっぷりが伝わってくる。バラバラになった戦闘機の前で立ちすくむ二郎の画は震えるほどの迫力がある。地震の波打つような表現も面白い。とは言え、今までとは違いファンタジー映画ではないのでアニメーションを見るだけで楽しむのは難しい。
そう、今作はファンタジー映画ではない。空飛ぶ猫や幼女に変身する魚は存在せず、ストーリーも冒険活劇や未知との遭遇を題材にしたものではない。
舞台となるのは1920年代の東京。主人公は美しい飛行機を作ることを夢見る堀越二郎。言うまでもなくこの頃の日本は戦争への気運が高まっており、飛行機設計士となった堀越二郎は戦闘機を作らされていた。
堀越二郎の夢は美しい飛行機を作ること。しかし、飛行機の設計に携わるには人殺しの道具である戦闘機に関わる事でしか許されない時代。爆弾や機銃の装備、戦闘に向いた構成など、様々な縛りがある中で、自分の夢を達成しようとする二郎の姿からは、「作りたいものを作る」という想いを抱いて創作に携わっている者全てに通じるものがある。二郎が冗談混じりに発した「機銃を装備しなければもっと軽くできるんだけどね」という台詞には、作りたいものを作れないもどかしさ、妥協しなければならない悔しさ、それでも良いものを作ろうとする情熱が、作り手の葛藤がとても良く現れている。
作りたいものがあるクリエイターにとって、一番頭を悩ませるのは恐らくどこで折り合いを付けるかだろう。予算・顧客のニーズ・納期・規定・販売元の指示、etc...これだけの制約がある中でモノづくりはしなければならない。妥協を重ねて、譲って、折り合いを付けて、自分のやりたかった事の殆ども叶わないまま、商品の形になるなんてザラにあるはずだ。二郎の夢の中で現れたカプローニ博士の「飛行機は戦争の道具でもなく、商売の手段でもなく、美しい夢だ」と発した台詞は、あらゆる縛りから解放されて、自分の作りたいように作るモノづくりの美しさ、クリエイターのロマンが込められているように聞こえる。
一方で、劇中の堀越二郎は飄々とした性格で描かれており、そこまで葛藤に苛まれているように見えなかった。これはこの映画の大きな特徴なのだが、名うての反戦主義者であり無類の戦闘機愛好家でありそして著名な映画クリエイターである駿の、反戦・モノづくりの葛藤・戦闘機への想い、と言った意思表明がテーマとして作品内に組み込まれていながら、それを明確に示していない。目立った反戦アピールもなければ、戦闘機讃美もない。淡白すぎる演出と主人公の性格によって駿のメッセージは表立って現れることなく包み隠されている。
だが、何気無い会話の中で使われた「矛盾」という言葉や、戦闘機の作画、最後の主人公の震えた声など、本当に細かいところに駿の想いは散りばめられており、それを集めて繋げる事で初めて彼の伝えたい事が見えてくる。声高にメッセージを発して積極的に自分の思想を押し付けるのではなく、観客自身が考えて読み取ってくれというわけだ。キーワードはばら撒いたから察してくれ、分からないなら分からないで良いというスタンスは、あまりに傲慢で一方的で清々しい。

叩いても駿の少女趣味しか出て来なかった最近のと比べれば今作は随分内容のある作品になっているが、実在した人物の話にわざわざ恋愛小説を絡めてくるあたり、やはり駿は少女を出さずにはいられないのだなぁ。