得られるものは何もないが、作者のパッションはあった





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佐藤友哉著作。

「戦後文学を読む」という企画で書かれたもので体裁としては批評エッセイらしいがそれは完全に建前で、実態は8割作者の自意識垂れ流しだった。
一応戦後の小説をいくつか挙げて批評っぽいこともしているが、作者にとってそんなことはどうでも良いらしく、批評途中に急に「東北大震災を気にして自分を見失っている小説家ダッセー」とか「俺、もう青春なんて書ける歳じゃないんで」とか「皆もっと俺のこと知ってくれよ!忘れないでくれよ!」とか「サリンジャーすげーっす。マジ憧れっす!」とか「ネットがあれば1000年後も俺は文章として生き残ってんじゃね?やべー俺まじ天才!」みたいな意味合いの、見えない敵と戦ってるとしか思えない佐藤友哉のどうでも良いコンプレックスばかりが伝わってくる。
僅かに存在する批評めいた文章もめちゃくちゃ独りよがりな理論の元に書かれていて何を言ってるのかさっぱり分からない。凄まじいまでの俺が俺が小説。チラシの裏にでも書いてろとしか言いようがない思い込みの激しい内容。

あまりにも自意識過剰な文章で内省など一切感じられないが、故に、この作品は圧倒されるばかりのパッションに満ち溢れている。作者の凄まじいパワーを感じる。
佐藤友哉は、真っ当な事を書こうとしているわけじゃない。賛成を得るために書こうとしているわけでもない。誰かの為になる事を書こうとしているわけでもなければ、正論を書こうとしているわけでもないし、1000年後に生き残るための青春小説講座を書こうとしているわけでもない。
ただ、書きたいことを書こうとしている。そこには計算や遠慮や誤魔化しは一切ない。ひたすら真っ直ぐ愚直に、自分が思っていることを、自分が伝えたいことを書いている。故に内容は他人から見れば全く無益なものでしかない。
だが、個性とは何ものも代替できない力であり、行きすぎた個性は疎まれるのと同時に人の心を動かす魅力にもなり得る。それの前ではテクニックや想像力など些細なものでしかない。この本は決して共感できる内容ではないが、それでもこの暴力的なパッションには人の心を揺らす確かな魅力があることは認めざるを得ない。佐藤友哉はある意味、小説家にとって一番大切なものを持っているのだろう。
しかし、こんな作者の自己満足でしかない本は一部の文学好きか佐藤友哉フェチにしか売れる見込みがないのだが、それに反して彼は心からビッグになりたいと願っているのだから恐れ入る。
彼だって自分のスタイルが大衆向けでないことは理解しているはずだ。それなのに決して今のスタイルを曲げようとしない。自分の心の叫びを世の中に広く知らしめたいという浪漫を追い続けている。サリンジャーのようになりたいと切に願っている。あまりにも純粋すぎて眩しい行為だ。
しかし、彼がサリンジャーのようになることは到底無理なので、分かる人に分かって貰えればそれで良いという本来あるべき鞘に収まれば良いのにと思ったりもするが、そうは言ってもやはり彼には、矛盾した気持ちを小説にぶつけて発散している今のままでいて欲しい。