あまりに愚直で切実すぎる






舞城王太郎著作

“奈津川家の三男の三郎は楓にストーカーまがいの行為をしていた荒木をぶちのめし、その日から荒木につきまとわれることになるが三郎はやたらと強く、授業中に荒木に襲撃されたときはカウンターを決めたあと窓から放り投げて足を折り、病院に行って手当を受けた荒木がギブスをはめて松葉杖を振り上げながら襲ってきたときは逆に松葉杖を取り上げてそれでボコボコに殴りまくり、その日の夜家でテレビを見ていたらチャイムが鳴って出ると鍬を持った荒木が立っていたときは顔面を殴って歯を折って更に倒れた荒木の中指を折り、次の日の下校時に校門の前で両手に包帯で包丁を固定した荒木が待ち構えていたときは包丁を奪い取って昨日折った中指を切断し、そんな豊かな高校生活を経て数年後に三郎は小説家となったが中身のないミステリー小説しか書けなくなったことに悲観し仕事を辞めて女と遊び回っていた時、彼は等身大のマネキンを田んぼの中に突っ込こむなどしていた中学一年生のユリオと出会い、一方その頃ユリオの彼氏であるタカシは首と手足と胴体をバラバラに解体されて中学校のグラウンドに置かれたテーブルの上にまとめられていて、同様の残虐な事件が五件も発生し犯人探しは難航していたのだが、実は上村先生と先生の家の地下の穴蔵に住んでいるオゾンの影響で巨大化した四メートルの子供による犯行であって、彼らは夜な夜な人間をコマ回しやダルマ落としやメンコのおもちゃとして見立てて遊んでいたのだが、その真相を突き止めた三郎にマサカリの舞を受けて巨大な子供は血だるまとなり事件は一応決着して、そのあと三郎とユリオは互いに愛し合うもユリオは精神が安定せず三郎に包丁で殺してと懇願していた頃、三郎の弟の四郎はトラックと天井の間で三回もバウンドして内臓が破裂し、意識不明の重体に陥っていた。”

全く持って何を言っているのか分からない。分からないが、作者の気持ちだけは痛いほど伝わってきた。これほどまでに愛の痛さと切実さを実直に書ける小説家が、舞城以外にどれだけいるだろうか。
舞城王太郎は、決して上辺だけの言葉で誤摩化さない。決して都合の良いあやふやな文章で取り繕わない。舞城は、ひたすらに愚直で、ひたすらに熾烈で、ひたすらに切実に、物語を紡いでいる。そしてその裏には居たたまれなくなるほどの人間愛が溢れている。
舞城の特徴と言えば、グロテスクな描写、突飛な設定、唐突な展開であるが、何も意味なく文章を飛躍しているわけではない。ただインパクトを与えるためだけにラディカルな技法を使っているわけでもない。物語の展開装置やトリックの種として機能させているのは勿論だが、人間の意志や感情や煩悩やコンプレックスと言った、つまり自己の発信を究極に表現したものとしてそれらが表されている。
この小説で言えば、最初の30ページで描かれる三郎と荒木の熾烈を極めた戦いがその最たるものだ。何度ボコボコにされても三郎に立ち向かう荒木のムチャクチャなやり方は、決して周囲から理解を得られるものではないが、それでもそれは彼なりの愛情の示し方であり、それは混じり気のない純粋な、とてつもない信念を宿らせた本物の愛の形だったのだ。同時にそれは抑制の外れた自我の果てでもある。
舞城の叫ぶ人間愛とは、そうした不器用で過激で自分勝手にしか表現出来ないアイデンティティでさえも理解して受け入れる、ということに帰結するものだ。

物語と呼ぶにはあまりにも支離滅裂で体裁さえ整っていないが、この混沌とした何かはある意味で現代的なリアリズムに満ちており、社会の効率化の為に自己を抑制されてドロドロとした狂気を抑え込み、表面を善良な何かで取り繕って生きざるを得なくなった現代人の生き様にズバリ当てはめている。まさに現代小説と呼ぶに相応しい。
ただし、物語としては全く面白くないのが難点。